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私はおばあちゃん子だった。

祖母は小学校の先生だったので、子供の頃、宿題はいつもおばあちゃんに見てもらっていた。うちに友達が来るとおばあちゃんは嬉しそうで、学校の先生に戻ったみたいだった。うちの近所に、難しい問題を抱えた子が住んでいて、私はしょっちゅうその子ともめていたが、その子もうちのおばあちゃんは好きで、ある日電話がかかって来たと思ったら、

「おばあちゃんに代わって」

と言われたことがある。

おばあちゃんは夏休みの自由研究で張り切って、理科の研究を指導してくれた。小学三年生の時には、雲の研究観察をつけた研究発表で埼玉県の最優秀賞をとった。私は今も、仕事でレクチャーを良くするが(もちろん雲の研究発表ではなくて音楽で)、原点はこの自由研究にあると思っている。

成長して行くにつれておばあちゃんは反抗期の私にとって口うるさい老婆になっていった。学校の先生的価値観とはだんだん折り合わなくなっていったのだ。正直に言おう、おばあちゃんは何か口を挟まずにはいられない、かなり面倒臭い人物でもあった。中学生の頃が一番「うざい」と思ったかな。良くない言葉も使った。反省している。でも、母と私がぶつかると、おばあちゃんはいつも私を慰めて励まして、

「のいちゃんは優しい子だからね。おばあちゃんは知ってるんだよ」

と言ってくれた。

私は高校生になって家を出たので、おばあちゃんと一緒にずっと住んだのは中学生までだった。ただ、学校から実家にはそれなりに頻繁に帰れる距離だったので、良く実家に帰った。

高校生の頃は、音楽高校で自分のプライドとか頑張って来たものを一度全部めちゃくちゃに壊されて、コンプレックスの塊だったので、誰にピアノを褒められても全然嬉しくなかった。今思えば必要な過程だったんだけど、いつも自分が下手くそだということが基本にあって、苦しくてたまらなかった。

でも、おばあちゃんはいつも

「上手だねえ」

と言ってくれた。

「のいちゃん、大きな音が出るようになったんじゃない?」「すごい難しそうな曲だねえ。音がいっぺんに何個鳴ってるの?」「とっても綺麗な音。聴き惚れちゃったよ」

そう言って、おばあちゃんはいつもいつもいつも褒めてくれた。そうやって、私が何をやっても肯定してくれる人は、この世におばあちゃんしかいなかった。いつもいつも競わされてばかりいたあの頃の私にとっては、おばあちゃんが私に向けてくれる「のいちゃんが弾くものは全部良い」という価値観は無価値なもののように思えて、受け止められなかった。

おばあちゃんは私が大学生になる頃も、短歌を読む会にいたり、源氏物語を最初から最後まで読む会に通ったり、教会でお便り係をしたり、とにかく活動的だった。

私が大学を出て、アメリカに留学する時、おばあちゃんがなんて言ったかは覚えていない。多分いっぱいいっぱいすぎて、誰かのことを考える余裕はなかった。でも、庭で私が出て行く時に手を振っていた姿は思い出せる。

夏休みなんかに帰国すると、

「のいちゃんの髪が黒くてよかった。アメリカの子になっちゃうかと思ったよ」

と言われて、そんなわけないじゃーん、と思ったのを覚えている。その頃には私は少し大人になり、おばあちゃんはさらに「おばあちゃん」になって、私は彼女に優しくできるようになっていた。

帰るごとにおばあちゃんは小さくなっていった。

でも、相変わらず活動的で人が好きで、香港からチェリストの友達が泊まりに来た時は、日本語がわからない彼女に毎日毎日話しかけて、

「チェロはいい音がするんねえ」とニコニコしていた。

友達も、「おばあちゃん」という日本語は覚えてくれて、そう呼びかけていた。

二十代の真ん中くらいから、やっとコンサートをする力が私にもついて来て、地元でもコンサートをするようになった。そういう時、おばあちゃんは必ず近所の人を引き連れて来てくれて、おばあちゃん団は強い味方になってくれた。私がコンサートをする時にチケットを売ってくれるのは、半分くらいはおばあちゃんだった。

2019年に帰ったとき、おばあちゃんは私に

「おばあちゃんはもう長くはないよ」

と言った。私は「そんなことないよ」と言ったけれど、前より随分ぼんやりとしていたし、家で暮らすことも難しくなりかけていたので、内心そうかもなと思った。

そんなおばあちゃんは、私に昔のことを色々話してくれた。特に、母のことをたくさん話してくれた。私は父を亡くして育ったので、自分の幼少期や、私が生まれる前のことについてあまり母に尋ねない。そういう時間のことを、おばあちゃんはちゃんとカバーしてくれた。

私がクリスマスにコンサートをしたその日に、おばあちゃんは教会の階段から転んで落ちて、入院した。

私は何度かお見舞いに行き、そしておばあちゃんは老人施設に入ることになった。もう家で一人でいるのは危ないからだ。うちの家族は日中誰も家にいないから、一人でおばあちゃんを残していけない。

そのうちお見舞いに行こう、と思っていたらパンデミックがやって来て、一年間会えない間に、おばあちゃんは私を見てもわからなくなって、病気が悪くなってしまった。平日の午後にしか会えないーそれも画面越しでしか会えないーから、全然おばあちゃんに会いに行けなかった。

明日、おばあちゃんは老人施設から病院に移る。私はその車に同乗することになっていて、もしかしたらそれが彼女に直接会える最後かなと思う。

私のことを全て肯定してくれる唯一の人。もう亡くなった祖父も母も、彼氏も、友達も、私に苦言を呈すけれど、おばあちゃんだけはいつも、私の100パーセントの味方でいてくれた。そしてそれを、私は知っていた。

私は明日、なんて言おうか。

おばあちゃん。

私のおばあちゃん。

 

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